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5月24日(土) 伊本俊二さんをお迎えして、第1回ハ ッピー・スワン交流会が開催されました。
当日は、今にも雨が降り出しそうな天気でしたが、伊本さんの楽しいお話と、「新葡苑」のおいしい中国茶とスイーツで、和やかなひと時を過ごしました。
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ご紹介いただきました、伊本です。
えーね、懐かしいんです。今日出てきたてみたら、僕はね、戦争が終った年にこの赤坂のすぐそばに住んでたんですよ、一ツ木に。それで一番近い学校がどこだって言ったら、上智大学なんで、歩いて行けるからっていうんで、早稲田と2つ受けたんだけど、近い方がいいって、そこに入りましたからね、上智大学なんです。それで入ったら新聞科って言うのは、早稲田と東大と上智とあったんですけど一番古い新聞科ができたのは上智大学なんです。昭和7年にできましてですね、それで新聞記者になろうっていうことで新聞界に入りました。新聞社も3つばかり受けたんですけど、一番近くて、まーあの、江戸っ子ですから、読売新聞入りました。まあ、そんなんで人生様々だと思います。小泉さんがねぇ、人生いろいろって話してますけど、人間って将来まで決まってたらね、怖くて生きてられませんよね。
学校をドイツのブレーメンで12年間やりました。
私がたった一人でドイツのブレーメンに、全寮制の日本人学校を作ったのは1988年で、90年過ぎにはもうバブルもおかしくなって、それでも12年間続けましたけど、最終的には、少子化の問題、それからバブルがはじけて、日本の人が、財布のひもを締めるようになって、さらに駐在員や何やらかが日本に引き揚げるって言うんで、結局閉めたのは2000年の3月でした。親元が日本にあって、親学校から資金を受けてる学校はたくさんありましたが、私はたった一人でブレーメンに乗り込んで、資金は全部私個人が銀行から借りて、学校を作った訳です。生徒も自分で、広告だして、それから教員も募集して、2年・3年目から全く自分の学校にしたの。何としてでもこれを成功させてやろう、ドイツで初めてですから、そういうことでやったんですがね。一人でやった学校ですから、潰れるのも早いけども、責任も全部私一人で負うことになって、まあいろいろ整理したんですけど、結局借金も私一人が負うたんです。
ドイツには文部省なんてないんですね、地方自治体に任してあります。ブレーメン州の文部行政府が学校の委員会をつくってる、それから、交通事故でね、ひとつ面白いことあったんですよ。私の学校の中学3年だったか、高校1年ぐらいの生徒が、バスを降りて、バスの裏からすっと向こう側へ、学校の方へ渡ろうとしたら、ま、向こうから来た車にはねられたんですよ、ボンネットにぼこんとぶつかって、ボンネットがへこんで、本人は脳震盪を起こしたんです。ま、生徒の方はそんなに、ひどくはなくて、入院することもなかったですが、結局そのときに、親が怒りましてね。そりゃ、日本だったらそうですよね、自分の子供預けてるんですから、それがとびだして、自動車にぶつけられて、はねられたんですから、何だそれで終わるのか、訴えてくれって言うんですよ。はねたんだから。まあ、僕たちもブレーメンの警察に行きましてね、その気になって怒ったんです。ところが、さんざん笑われちゃいました。「道路は川なんだよ、バスの後ろから突然飛びだす方が完全に悪い、どんなこと争ってもね、あなたたち勝てませんよ」って。日本だったら子供はねたんだから、ドイツはそんなこと関係ないです、自分でルールを破ったんだから、後ろから出てきてはねられたんだから、これはあんたの責任、むしろ裁判として訴えれば、ボンネットの修理代、30万か50万とられて、こっちが敗訴しますよ、やるんならやりなさいって。それで、両親も引き下がったんですけどね。
学校はなくなり、借金が残りましたが、でも、全然後悔してません。おかげさまで、体は健康だし、皆もお前がやったことはいいじゃないかと言ってくれましたんで、今、77歳、喜寿からの再挑戦を今考えております。今日は、エルダーの会ですから、そういう方がいる中に僕みたいに、裸んなったやつもいるんだから、それで元気なんだから、っていう見本みたいなもんです。
3Cを持て。

これは、大学の先輩が社長になってから言った言葉なんですが、「おまえなあ60、70じゃあだめだよ、まだ鼻ったれ小僧なんだよ」って。「3Cを持て。3CのCの3つの一つは1番先がCURIOSITY(キュリオシティー)だ。」CURIOSITYは好奇心ですね。「CURIOSITYのC。この次が、CREATIVE(クリエイティブ)のC。何かものを作ること、考え出すこと、生み出す創造力。で、3番目が、そこで終わっちゃだめ。CHALLENGE(チャレンジ)するためのC。」で、「3Cを死ぬまで、生きている限り、その気持ちでやれって」言われて、私も今そのように生きてきているつもりです。
好奇心は大事ですよ。
昭和46年から昭和62年まで16年間旅行読売出版社の編集長をやっておりました。で、その中で、いろんな先輩達が、私の恩師みたいな人たちが、いろんなことを教えてくれました。大相撲でね、その場所優勝すると、アナタハンハ、ヒョショジョウって読んだ外国人がいるんですよ。アメリカの、ジョーンズさんね。あのジョーンズさんはパンナムの広報部長やってたんです。で、そのジョーンズさんが、「ミスター伊本は活字の分野で、日本一の雑誌を作ってくれ。そのためには、全部旅行に関係するところを、それから、世界各地全部くまなく歩いて、とくにそのいろんな勉強しないと、日本一の雑誌は作れない」と教えてくれました。私の雑誌は5年目で、トップの販売になりました。ジョーンズさんに教わったとおり、なんでも勉強しました。寒い所で嫌なところだけはね、うちに丈夫な記者が何人かいたから、お前行けって言って、で、あとは全部自分で。ですからね、世界全部の中で行かないとこは、南極と北極ぐらいですかね、そんな程度でしたね。アメリカももちろん全部歩いて、1週間歩いてアメリカ東部徹底ガイドなんて本出しました。そのぐらい意欲的に歩きました。それでね、その、その次は自らなんか、その学べと言われたんで、学んでみようと、まずヤマハのモーターボートに挑戦して、船舶の1級操縦士の免許を取りました。次、飛行機はどうしようかと思って。旅の乗り物ですからね。アメリカでタッチ・アンド・ゴーやってですね、セスナ機を習いました。CURIOSITY(キュリオシティー)、好奇心を持って、何でもやってみることが大切ですよ。
土肥温泉の恋人岬はご存知でしょう。
昭和40何年でしたかね、土肥温泉の国道から700メートル入った岬の突端に舗装した遊歩道が作ってあるから行ってみるかって、僕が行ったのが、今で言う恋人岬なんですよ。遊歩道歩いたら、富士がきれいに駿河湾に浮かんでる。あ、これは、観光地になる。非日常性、日常にないものが、あたる要素なんです。だから、これを大観光地、一つの観光地にすることにはできるな、と思って。土地の古文書から探したのが恋人岬の伝説です。お客を来させるためには、伝説ぐらいなきゃだめですよ。えー、CREATIVE(クリエイティブ)ですね。グアムには恋人岬があるけれども、日本に恋人岬ってなかったんです。まず、恋人岬と名前をかえちゃおうと。物語は、お米(およね)が、恋人岬の突端に来ると、恋人の漁師福太郎の船が漁に行くのが見えるんです。彼女はそれから毎日を振って、それから福太郎は銀の鈴は船の先につけてね。だから恋が実るんです、金と銀の鐘を合わせ鳴らすことで彼女達はむずばれた。こういう会もそうですけど、PRが下手だったらいくらいいものを作ったって駄目ですよ。で、まず、自分が旅行読売の編集長ですよ、自分の雑誌にですね、すぐ、早速、伝説の旅って言うのをつくって、第1回が、恋人岬なんです。ね、伝説の旅をのっけたら、これが結構当たりましてね、そうすると、すぐそれをね、読売新聞にカラー入りで、朝刊に載せてくれたんです。今度それを見たテレビ局の人が、あっという間にね、3年か4年で、人っ子ひとり行ってない岬がですね、今でも40万平均、ピーク時が60万から70万になって、大変な観光地になりましたよ。
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中国スイーツをいただきながら…。
左から杏仁豆腐、マンゴープリン、月餅、杏のパイです。
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2000年は、4Kの時代です。
今の時代はこの2000年はね、4つのKが大事だろうと。自分で勝手に作った4Kですね。4つのKの一つは最初に私がやりました、観光問題。これは観光ブームで、エルダー族も旅に行くのが一番、定年になったらどこ行きたい、何をしたいというときに一位が、やっぱり観光ですよね。2番目に、私は教育やりましたんで、教育のK。3番目が、ドイツで環境問題ずいぶん勉強してきました。それで、環境のK。4番目が今やろうとしてた、健康のKです。この4つのKは、昔は、お遊びの分野に入ってたんですよ。しかし今やお金を一番使うのはこっちの、この4つのKですよね。それで、一応自分自身ですべてを体験しましたので、その分野でこれからまだ80、90とやっていきたいな、というのが今の心境なんです。まだまだCHALLENGE(チャレンジ)を続けたいと思っています。
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中国茶は、茉莉烏龍茶と東方美人でした。 |
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ドイツっていう国は、環境先進国です。
わたしは、12年間いたんだけれど、徹底した環境先進国ですね。まあ環境問題に取り組んだのは30数年前で、たとえば、今スーパーでビニール袋を出してるけど、ドイツはもう20年以上前からスーパーでそれ出しませんよ。持ってかないと、買った人には必ずお金を取って袋を、それはもう20年前からやってました。ま、そういうのまたゆっくりとこういう会で環境とかそういうことがあった時に話をします。ほんとにあすこはね道路交通法にしろ、環境問題にしろ、日本じゃ考えられないですよ。ブレーメンに線路があるんです。そこが、ま、アメリカではどうか知らないですけどね、見晴らしがいいとこなんですが、一応その踏切の4~500メートル手前から、列車が来るとか、遮断機が下りてるっていう信号機がこうチカチカ始めるんですね。でもそうじゃないときは踏切をノンストップで通り抜けなきゃいけないのです。止まっちゃいけないんですよ。僕はね、日本にいたから一旦停止したら、後ろから巨大なベンツのトラックが来てビーって来て、なんでお前は止まるんだ、踏切で、ふざけんじゃない。もしそこで止まったら排気ガスがブーブー出るだろう、エンジンがうるさいだろう、ここは騒音とか、そういうもんにうるさいぞ、遮断機が開いて、信号機がどうだって、怒られたんですから、トラックに。その代わりしまってる時は、全車エンジンを切って、そして遮断機が開くまで待つと。ま、とにかくね、こういう話をしたら、ほんときりないんですよ。ですから、今度は徐々に細分化して、環境問題とか、教育とか、そういうのがこの会であったら、またお手伝いに来ます。
植村直己さんの言葉のように。
とりあえず、今日はそんなところで、ま、最後にですね、実は、僕はこのあいだも埼玉新聞にね、観光問題を連載したんですけど、その中に、植村直己さんの言葉を最後に入れたんですよ。それは、人の生きる価値はお金でも、肩書でもない、夢を求めて、一瞬一瞬精一杯生きるのが、それが、幸福なんだという、植村直己さんの言葉を僕は非常に大切にして、今でも自分がそういう風な人間になりたいと思ってやっております、以上です。
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伊本俊二さん:
1932(昭和7)年東京生まれ。上智大学卒業後、読売新聞社に入社。「旅行読売」編集長などを務める。定年後もドイツ・ブレーメン国際日本学園を創設、理事長を務める。現在“中高年の方達の心と身体の健康増進、QOL(生活の質)向上のお手伝いをしたい”と国内外でご活躍中。
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